猫泥棒と木曜日のキッチン

 せっかく仕事が休みなのに活字ばかり読んでいる自分は馬鹿だと思う。しかし会社でやる仕事より楽しいのだからしかたない。なにより素晴らしい本に出会える幸福に勝るものはない。

猫泥棒と木曜日のキッチン

猫泥棒と木曜日のキッチン

 この本を読み終えたのは山手線の車内だった。品川駅で降りるつもりだったのに物語に引き込まれてしまって、気がつくと電車は浜松町に着いていた。降りて引き返したほうが早いのはわかっていた。しかし物語に引き込まれていたわたしにはその手間や時間すら惜しかった。ええいかまうものかと思った。このまま一周してしまえと。そして貪るように、同時に愛でるように、この物語を読み続けた。最後の一ページを読み終えて顔を上げると車窓の向こうに平凡な町並みが広がっていた。猫泥棒の少女と少年がそこにいる気がした。そしてわたしは悔しくなった。なぜわたしは彼らと同じ食卓を囲んでいないのだろうか。木曜日のキッチンにいないのだろうか。わたしは切実に、乞うように、その場にいたいと思った。混んだ電車になど乗っていたくなかった。本を読んだ後、こんな思いに駆られたのは本当に久しぶりだった。


「お母さんが家出した。あっさりとわたしたちを捨てた。残されたわたしは、だからといって少しも困ったりはしなかった。サッカーを奪われた健一君、将来女たらしになるであろう美少年の弟コウちゃん。ちょっとおかしいかもしれないが、それがわたしの新しい家族。壊れてしまったからこそ作り直した、大切なものだ。ちょうどそのころ、道路の脇であるものをみつけて……」


帯にはこんなあらすじが書かれている。主人公は17歳の高校生みずきで、彼女の一人称がみずみずしい。交互に健一による一人称のパートが書かれていて、こちらは打って変わってとても情熱的(ホレました!)。佐藤多佳子の『黄色い目の魚』と似た構造だが、橋本紡という耳慣れない作家は佐藤多佳子以上の技量でこの手法を使いこなす。みずきの目に映る健一、健一の目に映るみずき……それぞれの視点にわずかなズレがあり、そのズレが登場人物自身でさえ気づいてない彼らの内面を鮮やかに描き出している。


それにしても不思議な物語である。登場人物は皆なにかを喪失している。みずきは父親と母親を、健一は左足の自由を奪われている。しかし彼らはそのハンディキャップを乗り越えて確かな一歩を踏み出していく。彼らの歩みはたどたどしい。それは痛々しい。なのになぜかとても温かい。


この一年でわたしは二百冊以上の本を読んでいる。有名文学賞受賞作もたくさん読んだ。それでもこの本に勝るものがすぐに思い浮かばない。この本を読んでいる瞬間は至福そのものだった。残り少なくなるページに脅えたほどだ。特に最終章の見事さには舌を巻く。これほど優しいエンディングは滅多に読めるものではないだろう。


とんでもない才能である。
未来の重松清が、未来の角田光代が、未来の瀬尾まいこが、ここにいる。


評価 90点 好みに合致した上、作品としての完成度も申し分ない。あまりにも切なくあまりにも優しい。